現在、私の出生図の金星に、トランジットの冥王星が重なっています。
金星は、愛、美、喜び、人間関係、そして自分が何に価値を感じるかを象徴します。冥王星は、死と再生、徹底的な変容、隠されていたものの露呈を象徴します。
この二つが重なる時期、愛するものがただ増えていくわけではありません。
むしろ、これまで愛だと思ってきたものが、
本当に愛だったのかを問われます。
愛と混同していたものが、剥がれていく
執着を、愛と呼んでいなかったか。
関係を維持することを、相手を大切にすることだと思っていなかったか。
誰かを理解し続けることで、すでに終わった物語を延命させていなかったか。
冥王星は、愛そのものを奪うというより、愛と混同していたものを剥がしていきます。
人間の精神的な成長には、いくつもの段階がある
最近、人間の精神的な成長には、次のようなプロセスがあると学びました。
問題。
直面。
受容。
自覚。
孤独。
変化。
顕現。
祝福。
人にはそれぞれ、つまずきやすい場所があります。
問題そのものを認められない人。問題には気づいていても、直面できない人。自覚しても、変化へ進めない人。変化し、何かを形にすることはできても、最後に終わらせられない人。
私は、自分が「祝福」を苦手としていることに気づきました。
祝福とは、プロセスの終了を認めること
ここでいう祝福とは、単に喜びを受け取ることではありません。
自分によくやったと伝え、一つのプロセスの終了を認め、次の段階へ進むことです。
それは時に、長く携えてきた人や物語との別れを含んでいます。
私はこれまで、何かを完全に理解できるまで終わらせたくないと思っていました。
相手にも理解してほしい。できれば相手にも変化してもらい、全員で次の場所へ進みたい。自分だけが先へ行くことに、残酷さのようなものを感じてしまう。
しかし、人生の変化は一人ずつ起きます。
誰かを次の段階へ連れていくことはできません。相手の理解を自分の物語の結末の条件にしてしまえば、理解しようとしない相手との物語は永遠に終わりません。
祝福とは、すべてを理解できたから終わることではなく、
未回収のものが残っていても、
「自分の仕事は終わった」と決めることなのかもしれません。
タロットの『世界』に感じていた残酷さ
私は以前から、タロットの「世界」のカードに、どこか残酷なものを感じていました。
一つの旅が完成し、円環が閉じるカード。一般的には達成や成就を表しますが、完成するということは、そこへもう何も付け加えられないということでもあります。
完全な説明も、全員の成長も、全員からの理解も得られない。それでも、輪を閉じなければならない時があります。
だから私は、別れそのものを再定義する必要があるのだと思いました。
愛が永遠に残っても、同行が終わることはある
別れは、愛がなかった証拠ではない。
愛が永遠に残っても、同行が終わることはある。
亡くなった存在への愛が、死によって消えないように、生きている人と離れることになっても、そこにあった愛のすべてが無効になるわけではありません。
祝福とは、相手を切り捨てることではありません。
相手の人生を相手へ返し、自分の人生を自分のもとへ取り戻すこと。その関係から得たものも、失ったものも抱えながら、それぞれの道を歩き始めることなのだろうと思います。
癒しは、関係を元の形で保存するための技術ではない
癒しが進んだ結果、関係が以前より深く結び直されることもあります。
一方で、適切な距離が生まれたり、別々の道へ進んだりすることもあります。
癒しは、すべての関係を元の形で保存するための技術ではない。
それぞれが、自分にとって真実な形へ変わっていくことです。
金星と冥王星は、愛を変容させる
金星と冥王星の合は、愛を失わせる配置ではなく、愛を変容させる配置なのだと思います。
愛に混ざっていた執着、支配、自己欺瞞、恐れが燃え落ちたあと、それでも消えずに残るものがある。
それは同じ場所にいることでも、同じ未来を見ることでもありません。
変化してもなお、その存在の幸福を願えること。そして相手を追いかけず、自分自身の旅を続けられること。
愛は残る。
けれど、同行は終わることがある。
その別れを悲しみながらも、ここまで歩いてきた自分に「よくやった」と告げて輪を閉じること。
それが今、冥王星から私に差し出されている「祝福」なのかもしれません。